ROMANCE DAWN for the new future
僕は写真を撮ることが好きだ。
何故なら、イメージとアウトプットの誤差が小さいから。
絵や書道も愛したいけれど、誤差が大き過ぎて満足できない。
美術は万年「2」だったし。
練習量の問題があるかもしれないが、それはまあ置いておく。
ちなみに文章を書くことも好きだ。
写真と違って作品的な観点は有していないけど。
突然に送りつけて、勝手に愛を感じている。
君にも送らせてくれ。
返さなくてもいいから。
第2章の夜明け
組織レベルのイメージを形にしていくことは難しい。
僕にとっての絵のようなものだ。
でもその中で、皆はどう思っているか分からないが、僕は Teacher Aide 第2章の訪れを確かに感じている。
「SEMINAR」、「PROJECT」という支部横断的な枠組み、及び、「ゲストトーク」という内向きのイベントの誕生は、内側での学びを促進させているし、学生という枠が取り払われたことは、社会人×学生の可能性を我々に見せてくれている。
勿論、我々のビジョンである「教員1人ひとりを幸せにする」を実現するためには、如何にして外側の人(組織に属していない人)と歩みを共にしていくのかを考えなければならないのであるが、第2章の訪れは、たとえそれが内側において生じているものだとしても、その礎になるものだと僕は信じている。
【Teacher Aideは学生以外もグループに入れます】
— Teacher Aide (@Teacher_Aide) 2020年8月1日
先生の居場所にもなれるように、学生×現職の相乗効果をさらに生めるように、との想いを込めています。
しかし、あくまで学生主体の在り方は変わりません。お手を貸して頂けると嬉しいです。
詳しくは動画をご覧ください🔽 pic.twitter.com/sfZB7TTsAR
潔い諦念
僕が常日頃から持っている組織レベルのイメージの1つは、「諦めることで、諦めない」ということ。
我々はよく「土壌」という言葉を使うが、僕なりのパラフレーズがこれだ。
何を「諦める」のかというと、我々の力だけでビジョンを達成することを諦める。
1つの具体で全ての人を助けることは不可能であると完全に割り切っている。
組織を立ち上げたあの日から。
本を書いても、制度を変えても、ツールを開発しても、コミュニティをつくっても、どれか1つだけでは全ての人を助けられないから、それら全てが重なり合い、世界が変わっていくことを想像している。
そして、そのプロセスを実現させるために、我々は「自分事マインド」の醸成に挑んでいる。
具体を担い得る人、及び、セカンド、サードのペンギンを生み出すために。
我々が「具体に欠ける組織」に見えるのは、直接的に誰かを助けることだけに取り組んでいないからだと思う。
そして、間接的にも誰かを助けていきたいという組織のニュアンスを「具体ではなく抽象で」と表現してきたけれど、改めて考えてみると、俺らめっちゃ具体やん?
何でもやってる組織に見えるのも、何もしていない組織に見えるのも、「自分事マインド」の醸成を究極的な目標にしているからである。
このやり方で、ビジョンを達成することを「諦めない」のだ。
炬燵でアイスを食べる
もう1つのイメージは、「正しく悲しみながらも、正しく楽しむ」ということ。
「なんちゃらドリブン」とか「なんちゃら動機付け」とか色々とあるけど、そんなのはどうでもよくて、この矛盾するような感情を大切にしたい。
どんなに偉大で、崇高なビジョンを掲げようと、そこに近付くための一歩一歩は限りなく地道なものである。
そうであるならば、できるだけ楽しい方法を選択したいし、楽しさを感じていきたいよね。
積み重ねていく、続けていくことが、第一条件だと思っているから。
でもやっぱり、現状を悲しむことは大きなエネルギーになる。
その悲しみが、感情的なものでも、 理性的なものでも、1人に対する思いでも、全員に対する思いでも、何でもいいけど、皆に少なからず存在しているだろうし、それを大切にして欲しい。
楽しいだけでは、何を目指したいのかを忘れてしまいそうだ。
勿論、悲しさを強制したいわけではないし、悲しむことが負担になる場合もある。
悲しみに暮れて何も手につかないという状況もあり得るだろう。
ただ僕が言いたいのは、悲しさと楽しさの両立はあり得るのではないかということであり、Teacher Aide はその世界を築きたいということ。
ものすごく難しいことかもしれないけど、我々はそこに挑んでいる。
LOVE & TRUTH
この文章を書いている「かんのすけ」は、Teacher Aide の共同設立者兼共同代表であるが、「じんぺー」と異なり、存在感もなければ、人をひきつける何かを持っているわけでもない。人脈が広いわけないし、行動力も中途半端だ。
そこには、「できる or できない」、「やる or やらない」、「演じる or 演じない」という要素がある。
そんな僕は組織の中で、ビジョニングしたり、モチベートしたり、インフルーエンスしたりといった役割ではなく、仕組みを整えたり、決まりを考えたりといった役割を担っている。
思えば、四半世紀にも亘る壮大な僕の人生は、「副」の人生であった。高校、大学では「副キャプテン」を担っていたが、そこで求められていた役割は、チームを引っ張ることではなく、組織を後ろから支えることであった。
果たして僕は、四半世紀を共に生きてきたこの僕は、世界に対する「LOVE」なのか。
それとも僕を僕たらしめている「TRUTH」なのか。
そんなのどっちでもいいし、真相を解明したいだなんてこれっぽっちも思っていないのであるが、たまに頭に浮かぶ問でもある。
「あいのうたを聴かせてよ、YUI」って感じだ。
圧倒的な主人公の横で、僕はどう在るべきか。
ナルトでいうサスケ、ゴンでいうキルア、小野田でいう今泉、デクでいう爆豪。
冷静で、全体観を持っていて、男前。ってあれ?
彼ら、すぐキレるし、自己中心的じゃないの。
「じゃあ、君はどうしたい?」、「君の WILL を教えてよ!」って、先人が4,000回くらいこすったセリフをさも自分が考え付いたかのような顔で語りかけてくるベンチャー人事の声が聞こえる。
「原体験は?」、「成果は?」って。
うるせえよ、そんなもんに興味はない。
ちなみにこれらの写真は僕が撮ったもので、人に見せられるようなもではないもしれないけど、存在感の爪痕を残したいという足掻きだよ、足掻き。